考え方や感じ方が人と違うだけで、
“なぜか疲れがち”な人向け。
「ふーん」と軽く読める内容です。
私はどうやら、
幼少期から人と少しズレているらしい。
自覚はある。
常識も道徳も、人並み。
周囲からの評価も、だいたいは「まじめ」。
それなのに、なぜか
「変わってる」
「考えすぎ」
「気にしすぎ」
と、驚くほどの頻度で言われる。
ずっと不思議だった。
なぜ人は、
“ただ違う”というだけで、
あんなに過剰に反応するのだろう。
自分に害があるなら、警戒するのもわかる。
距離を取るのも正当だと思う。
「やめて」
「そういうことを言わないで」
と伝えるのも、健全な反応だ。
でも、実害もない。
ただの考え方や感じ方の違いに対して、
「なんで?」
「普通はさ」
と騒ぎ出すのは、正直よくわからない。
あるとき、気づいた。
多くの場合、
相手は正しさを求めているわけでも、
解決策が欲しいわけでもない。
ただ「納得」したいだけなのだ。
だから私は、
心にもないのに、こう言う。
「ごめん、うっかりしてた笑」
「またやっちゃったー」
先に言って、笑う。
そうすると、場は丸く収まる。
周りも、それ以上は何も言わない。
……でも、
正直、うんざりしている。
その場は平和でも、
自分だけが毎回、飲み込む側に回っている感覚は消えない。
「世話の焼ける奴ら……」
と、心の中でつぶやきたくなることもある。
そう言う人たちに、
私は内心こう思っている。
あなたたちこそ、
私のことを気にしすぎ、考えすぎなんじゃないの?
……暇なの?
私は、
人と考え方が違って当たり前の世界線しか知らない。
だから、
相手の考えがどれだけ自分と違っていても、
驚くことはあっても、
「◯◯過ぎ」
「普通と違う」
などと、
ジャッジは絶対にしない。
否定的な言葉を向けられても、
「へえ、そうなんだ。びっくり」
で終わる。
むしろ、
「大人なのに、人にそんなこと言えちゃう人なんだね。」
と、笑いそうになる。
実際、たまに笑ってしまう。
こちらを「変」だと指摘しているつもりなのだろうけど、
冷静に考えると、
どう見てもズレているのは、相手のほうだ。
―――たとえば、こんな話。
スーパーの鮮魚コーナー。
鮭の切り身が、ずらっと並んでいる。
その中に、1パックだけ別の商品があるとする。
鮭フレークとか、
お刺身サーモンとか。
それ自体は美味しいし。
何の問題もない。
ただ、周りと形状が違うだけだ。
お刺身が食べたい人は、お刺身を選べばいい。
ごはんに乗せたい人は、鮭フレークを買えばいい。
それだけの話だ。
なのに、
「ここに置いてあるってことは、
これも切り身でしょ?」
と無理やり同じ扱いをして、
お刺身サーモンを焼き、
「なんでうまく焼けないのよ!」
とキレている人がいたらどうだろう。
おかしいのは、どう考えてもその人のほうだ。
人間関係でも、まったく同じことが起きている。
違いに気づいているのに、
同じ使い方・同じ価値観を強要する。
うまくいかなかったら
「相手が悪い」と決めつける。
切り身同士の
微妙な大きさの違いは許せるのに、
形状が違うと許容できない。
でもそれは、
許容できない本人の主観でしかない。
その主観を相手に押しつけた瞬間、
問題があるのは
「形状が違う相手」ではなく、
形状の違いに気づいているのに、
無理に他と同じように扱おうとする、
そんな「本人」だということが露呈する。
結局、たいていの問題は相対的なものだ。
違うから、
「問題っぽく見えている」だけ。
本人の本質的な欠陥ではない。
それを忘れると、
世界は一気に息苦しくなる。
そして、
「問題のない人」まで、
「問題のある人」にされていく。
私は、切り身じゃない。
でもそれは、
欠陥じゃない。
ただ、違うだけだ。
違いを問題にするかどうかは、
いつだって、見る側の主観でしかないのだから。



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